色々なことを想う夏

生きていれば5歳の夏。
ユウタの居ない4回目の夏。

ユウタが生きていたら選ばなかっただろう今の道。
その道で出会った沢山の人。

私のように子どもが生まれたけど亡くしてしまった人。
どんなに頑張っても授かることができなかった人。
健康な子どもに恵まれたけど、成長する過程で障害や困難が見つかった人。

色々な人が居ます。その立場にはなれないけれど、思いやることはできるよね。
そんな話をします。その人の立場に本当に立とうと思うと、言葉が出てこないことが多々あります。
自分ができることはなんだろう。そんなことを思います。

今自分の持っているものに本当に感謝する。感謝できる状況にあることが幸せだと思う。ユウタの病状に一喜一憂していた頃、なにかある度にドクターに「覚悟してください」と言われた日々、「このままでは半年先はない」と言われた日々、明日の命もわからず不安で眠れなかった日々、病院からの最後の朝の電話、その後の沢山の混乱と葛藤の日々。
今思い出してもなみだもが止まらなくなって、息が苦しくなるけれど、今こうして生きていて、パパと笑い合える日々に心から感謝しています。

悲しい思いはしたくなかったけど、その経験があってわかったこともたくさんある。
よく人生に無駄なことはないって言うけれど、本当だと思うと同時にそれを本当にできるかは自分の努力次第だなとも感じます。その努力をし続けられるように、美味しいものを食べ、美しいものを見て、大切な人を毎日大切にし続けられるよう強靭な精神力と肉体を得られるように頑張っていきたいなと思うこの頃です。

美しい日本の夏。沢山のセミやトンボ、アゲハチョウを日々子どもたちと追いかけながら、命の意味を考えます。

ストレスチェック。配偶者の死:100 子どもを亡くすって?

ユウタママです。

職場のストレスチェックなるものを受けました。

その中の最高のストレス度に位置していたのが、配偶者の死。

子どもの死は入っていませんでした。

そして配偶者の死が100に定義されていた。

じゃあ、子どもの死を経験した自分はこれを振り切ってるわけだ、と妙に納得してしまいました。

なんか、社会から人から距離を感じてしまうと言うか自分で距離を取っているのは、決して共感できないってわかってるからかな。と思います。

親しい人には共感してほしいって言うよりも、むしろそこにいてくれて有難うって思うんですけどね。

なんか新規の普通に付き合うべき人っているじゃないですか。

そんな人にものすごく距離を感じると言うか、自分で距離を取っているだけなんですがものすごく隔たりを感じます。

でもふと考えれば、見えないだけでその人達も悩みを抱えていて知らないだけでしんどい思いしているんだろうなって思う。

なんだかね、生きるって複雑ですね。

この大切な命。欲しくても手に入らない身体的自由を持っているのだから、進むしかないんだなと思う今日このごろです。

ユウタ!ままは頑張ります!!

4歳のお誕生日

今日はユウタの4歳のお誕生日。

今年は去年に引き続き、環境の大きく変わる年でした。
あわただしく過ごしながらも、少しずつ今後の道筋が見え始める今日この頃。
これから自分はどう生きていくのか。
どうしたいのか。
そのために何を選択し、どう行動していくのか。
課題は山積みです。

最近、身近で難病のお子さんが亡くなりました。
こんなにたくさんの人は普通に健康なのに。
なんでこの子なんだろう?
なんでユウタだったんだろう?
そんなことを想いました。

人は簡単に死んでしまう。

でも、人はそんなに弱くもない。

そんな風に最近は思います。
悲しみの乗り越え方は人それぞれ。
自分なりのやり方がある。
それでいいと思います。

花火の日に生まれたユウタ。
今年もお空に君のために大きな花が咲きます。

もうすぐ3年

もうすぐユウタがお空へ逝った日がきます。

あれから3年。

ユウタは

今年で4歳です。

最近、「お子さん、おいくつですか?」と

そこまで密接でない方に聞かれる機会が多いです。

なので、率直に「今年で4歳です。」と答えます。

子どもはいない、とは私には言えません。

かといって深く知らない方に、突然子どもを亡くしたことをいうのも、、、

と考えてしまいます。

「4歳です」というたびに、

心に突き刺さる何か。

でもこれもユウタのくれた大切な経験。

今はそう思い、笑顔を絶やさずに行こうと思います。

5月の青空を見るたびに、ユウタが初めて見た青空を思い出します。

命を軽視する人との決別

ユウタママです。

昨年末、ずっと心に引っかかっていたことをはっきりと表明しました。

わたしの両親は、ユウタが闘っている時、生きようと全力を尽くしている時、

そこまでしなければ生きられないならそのまま死なせればいいと言いました。

そういう意見もあるとは思います。

でも私は、一番支えてほしいときに一番身近な人からそういわれたことが悲しかった。

ユウタを亡くした後、そのことで苦しんでいる時、兄姉から「そういう考えのお前が悪い」と言われて苦しかったです。

でも自分は間違っていないと思います。

子どもの生きようとするエネルギーや個性、子どもの自分でどうするか決定する意志を尊重するのが、応援するのが親の役目と思っています。

だから、以下の手紙を両親に送りました。

賛否両論あるとは思います。

でも私はこう考えました。以下、全文です。

ご無沙汰しております。雄太の命日にはお花をいただきありがとうございました。ありがたく思うと同時に、複雑な気持ちでいます。あなた方も高齢になり、一度きちんと自分の気持ちを伝えておこうと思いました。

率直にいいます。あなた方は私たち家族にまず、謝罪をすべきと思っています。あなた方は雄太が生死の境をさまよい、それでも戦い続け生きる・生き続ける努力を重ねているさなか、私たち家族がギリギリの精神状態の時に思いやることもせずに自分の思いをただ垂れ流し、私たち家族を傷つけました。そのことはどれだけ時間がたとうとも許されることではありません。あなた方は昔から、子どもを一人の人間として認めず、自らの過ちも誠意をもって謝罪をするという事から逃げてきました。それは私自身が体感したあなた方の記憶です。あなた方がそれを否定しても、それは私の思いです。否定するのも結構ですが、他者の持つ印象と自分自身の理想というものは常に違うものです。それを観てみぬふりをし、私たち家族・雄太と私とパパの意志を踏みにじるのは今後一切許す気はありません。私は雄太の死後、精神科に通いカウンセリングを受け様々な方の助けがあり今は自分の道を進んでいます。その中で「許す」という行為について深く考えてきました。私は家族だから許されるという古い考えには賛成できません。そして許すという行為の本質も考えました。その中には二つの要素があり、一つは「復讐をしないと誓う事」もう一つは「その人が犯した罪を無条件に免除する」行為だと思っています。私はあなた方に復讐しようとは思いません。でも無条件であなた方が犯した命を軽視する・他者を軽視するという罪を免除する気もありません。あなた方はあなた方の幸せを追求するべきと思います。でもその幸せをかなえるために私を利用し、私を踏みにじるのはおやめください。人はそれぞれ尊重されるべきですが、傷つけられるべきではありません。そのことを申し上げておきます。

私は今、自分の道を歩いています。そのために、又引っ越しもしました。住所を言うべきか否か迷いましたが、良い機会と思いこのような手紙を書くことにしました。これをどう受け止めるかは、あなた方の自由です。

 

これを読んで、なんて恩知らずな、と思う方もいると思います。

わたしは命を軽視することはたとえどんなことがあっても許す気はありません。

今まさに病気と闘っている人、その人を支えている家族、先生方、看護師の方々、私はその人たちを全力で応援したいし、尊厳を守りたいと思っています。